写真は西武百貨店、西武池袋線のホームが見える

「やっぱり西武線でよかったね」の2回目は、例外的に「はなこエリア」を離れ、西武池袋線の始発「池袋」について述べようと思ったが、今回は池袋そのものではなく、その隣の話となってしまった。例外ばかりで申し訳ない。

▼種村季弘は池袋出身

 博覧強記の文学者・種村季弘に、東京を歩きまわるエッセイ『江戸東京《奇想》徘徊記』(新装版 朝日文庫)がある。2001年から雑誌の連載が始まり、2003年に単行本になり、その後文庫化され、2024年に文庫の新装版がでている。

 東京のあちこちを歩き、その土地の過去・現在を自在に述べたエッセイ30本を収める。それに対応する「徘徊の手引き」つまり散歩ガイドと写真がつくという〝実用性〟もある。20年以上前の文章なのに、深い歴史的な教養に裏打ちされた土地語りは古びない。この散歩本が〝長生き〟しているのは、そんな理由があるのだと思う。

 その30箇所が一目でわかる地図が付録ページとしてついているので、引用させていただく。

 池袋周辺では、25大塚坂下町儒者棄場、26大塚一つ目小町物語、27池袋モンパルナス、28池袋二業地の家という4つの話題が載っている。

 なにしろ種村氏の生家が、28で紹介されている池袋の繁華街から少し外れたところにあったのだから、氏がこのへんに詳しいのは当たり前といえば当たり前。それぞれのタイトルを見てもなかなか面白そうなのだが(実際に細かくて面白い)、池袋の街を紹介するのは別の機会とし、ここでは「一つ目小町」という概念を拝借する。

 《大きな盛り場がある鉄道駅(たとえば現在の池袋駅)から一つ目の駅界隈は美人美酒の穴場と相場が決まっている。これを称して「一つ目小町」という。》p232

「美人」に拘泥するとセクハラになりそうだが、大きな駅の隣というコンセプトに何かを感じないだろうか。

 池袋の隣を挙げてみる。
目白—池袋—大塚(山手線)
   池袋—新大塚(地下鉄丸ノ内線)
要町—池袋—東池袋(地下鉄有楽町線)
   池袋—北池袋(東武東上線)
   池袋—椎名町(西武池袋線)
   池袋—板橋(埼京線、昔は赤羽線)

▼一つ目の大塚

 小さくて地味だが街の個性のようなもの、中心と周縁でいえば周縁の魅力を感じないだろうか。それらの街を巡りたいところだが、大塚で引っかかってしまった。
『東京《奇想》徘徊記』の「26大塚一つ目小町物語」は、このように始まる。

 《いまの池袋を見ていると信じられないが、ざっと六十年前(引用者注:1940年頃)、わたしの子供の頃には大塚のほうが池袋よりひらけていた。》p224

 これは意外だ。「池袋と巣鴨に挟まれて、大塚は影が薄い」と地元の人が自虐的に言ったという記事を見たが(『散歩の達人』の池袋特集号2025年11月)、地味なイメージのほうがピンとくる。
 ただ、〈池袋=じつは田舎〉というハナシは、ほかにもある。江戸から明治にかけて池袋周辺は田園地帯で、山手線の開業は目白駅のほうが早かったというのもそれ。これは、鬼子母神の客を見込んだのだろう。目白駅は1885年、池袋駅は1903年の開業だから、けっこう差がある。ただ、大塚駅は池袋駅と同じ1903年だから、こちらはどっちもどっち。

 それはおくとして、大塚が池袋より「ひらけて」いたのは、「大塚駅の構内を包むようにして白木屋(しろきや、注:百貨店)」があったこともその理由に挙げられている。〝百貨店の街〟は池袋より大塚のほうが早かったということか。

 もうひとつ、「三業地」も大塚のほうが先んじていたようだ。
 「三業地」は要するに花街のことで、芸者の置屋、待合、料理屋の3セットが営業できた街。池袋は戦前までは料理屋がない「二業地」だったようで、「池袋も戦後はたしか三業地に昇格したはずだが、大塚は早くから三業地を看板にしていた」(前掲書、p241)

 そして、「大塚花街には道のまんなかに一筋の川が流れていた」(p226)という。この大塚の「三業地」は、「大塚三業通」としていまもその名を道に残している。通りの下は暗渠になっていて「谷端(やばた)川」が流れているのは、今回も『川の地図辞典』(菅原健二、之潮)によって確認することができる。大塚は路地が組み合わさった街といっていいだろう。

 このようにこの本には大塚についてたいへんな量の蘊蓄がつまっている。詩人の田村隆一の生家がこの花街にあったことも伝えられている。田村隆一は「保谷」という詩作品を書いており、「はなこエリア」の住人だったこともあるが、そのことは別の機会に述べたい。

▼『ノルウェイの森』の大塚

 先に大塚に「引っかかった」と書いたのは、『東京《奇想》徘徊記』には載っていないが、大塚を効果的に登場させた小説を思い出したからだ。それは、村上春樹の『ノルウェイの森』(87年)である。
よく知られているようにこの小説は、村上がそれまでの一部の熱心なファンに支持される作家から誰でも知っている作家になるきっかけになったベストセラーだ。リアリズムのいわゆる青春恋愛小説で、作家本人も「メロドラマ」というような言い方をしていた気がする。

 時は1967年、主人公の「僕」は東京の大学生だ。物語は高校時代からの恋人・直子と大学で知り合ったガールフレンド・緑をめぐって展開する。三角関係といえばそうだろうが、村上の小説だからドロドロ、ぐちゃぐちゃの愛憎劇になるわけがない。

 これは強引な解釈だが、村上のひとつ前の長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(85年)のパラレル・ワールドのように、直子の世界/緑の世界を別々のパートとして読むことができる気がする。その〝緑のパート〟の重要なシーンが@大塚なのだ。

 大学の同級生である緑と知り合いになった「僕」は、日曜日に緑の「うち」に遊びに行くことになる。「うち」というのは彼女の実家で、大塚で小さな「小林書店」を営んでいる。「僕」は都電に乗って大塚に向かう。都電が山手線と交差するのは大塚だけだ。ちなみに大塚が池袋より早くひらけたのは、この都電が鬼子母神につながったことも大きいらしい。

 《大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通りを彼女(注:緑)が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁盛しているようには見えなかった。…/そんな道を十分ばかり歩いてガソリン・スタンドの角を右に曲がると小さな商店街があり、まん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。》(講談社、上巻p120)

 60年代の終わり、たぶんターミナル駅から「一つ目」の街は路地が入り組んだこんな感じだったと想像できる。小説のBGMとして「いしだあゆみ」が聴こえているのが心憎い。

 そして僕は緑の実家に上がり、緑の手料理を食べたり、片付けをしながら、〝村上春樹的〟会話を交わす。緑は、母親が亡くなり、そのショックで父親が失踪してしまったことをこんなふうに語る。「お母さんはお墓の中よ」、「お父さんは去年の六月にウルグァイに行ったまま戻ってこないの」。よくいわれることだが、村上の小説にはいたるところで死の影が差している。

 そうこうしているうちに、青春映画にありがちな二人はお互いの体をまさぐるという仕儀にはいたらず、「緑の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなくキスをした」のである。

 そして物干しでの会話が、この小説の深部に触れていると思われる。
 火事がこちらに飛び火しかねない状況になり、緑に避難をすすめるが、緑は応じない。

《「大丈夫よ。私逃げないもの」/「ここが燃えても?」/「ええ」と緑は言った。「死んだってかまわないもの」》p136

 緑は天真爛漫キャラのようでいて、やはり村上小説の登場人物らしく世界との根本的な違和のようなものを抱えている。「僕」は、彼女が「どこまで本気なのかどこから冗談なのか」さっぱりわからず、「つきあうよ、君に」と言いつつも「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ」と語る。こちらもマジと冗談の虚実皮膜をいく。この虚実皮膜が村上春樹の小説の核心にある、と考えている。

 さて、それにしてもなんで大塚なのか? 東京におけるこの街のポジションによる選択か? 都電の存在? 奇妙なことに「大塚」という固有名は出てくるのに、都電の始発「早稲田」という名前は出てこない。やはり「大塚」には作者の意図を感じる。村上春樹的地名ということができそうだ。

 村上が昨年発表した短編は「武蔵境のありくい〈夏帆〉その2」である。この「武蔵境」には意味があるのだろうか? いまのところ謎だ。

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By 杉山尚次

1958年生まれ。翌年から東久留米市在住。編集者。図書出版・言視舎代表。ひばりタイムスで2020年10月から2023年12月まで「書物でめぐる武蔵野」連載。著書に『西武池袋線でよかったね 郊外から東京を読み直す』(交通新聞社新書)等がある。

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