多磨全生園でのガイドウォーク

 ハンセン病に関する正しい理解を促そうと、10月10日、国立療養所多磨全生園(東村山市青葉町)の園内を学芸員のガイド付きで歩くイベント「多磨全生園人権の森を歩く」が催され、秋晴れのもと約60人が参加した。

 多磨全生園は1909年設立された「全生病院」を前身とし、全国に13あるハンセン病の国立療養所の一つ。国の強制隔離政策によって戦前、戦中、戦後を通じてピーク時には1500人以上の患者が過酷な収容生活を送った。

 現在約35万平方メートルの敷地には入園者や有志団体・個人によって植樹された木々が250種類約3万本育っており、「人権の森」と呼ばれている。東村山市は開設100周年にあたり多磨全生園の豊かな緑と人権の歴史を長く後世に伝えるため「いのちとこころの人権の森宣言」を行い、2010年、園内に石碑を建てた。

 この日は、ガイドウォークを前に、国立ハンセン病資料館で関係者のあいさつや説明、ハンセン病回復者の体験談などがあった。渡部尚・東村山市長は「ことし、歴史的建造物などを国の責任で残すということになったが、樹木を含めてどういう形で残すか明確でないので今後働き掛けを強めたい。入所者の高齢化が進み、現在は70人で平均年齢は89.3歳。入所者がいなくなった後の施設永続化を果たすため法改正を求める署名活動も行われているので協力をお願いする」とあいさつ。

 多磨全生園入所者自治会の山岡吉夫(よしお)会長(77)は「ここに暮らした先輩たちは絶望の淵に立ちながら希望を捨てなかった。戦後の荒れ果てた園内を少しでも明るく、命の尊さを伝えようとお金を出し合い一本一本手作業で緑豊かな森をつくり上げた。この森の木々にはここで亡くなっていった仲間たちの無念な思いや、残酷な運命を生き抜いた力の強い歩みが刻まれている。二度と同じ過ちを繰り返さないために人権の森を大切に守り続けている」と述べた。

 入所者の平野智(さとる)さん(87)はインタビューや会場からの質問に答える形でハンセン病に対する偏見・差別の記憶や多磨全生園での生活について証言した。一般の聴衆に向けてハンセン病回復者が話すのはコロナ禍後初めてという。平野さんは愛知県出身で11歳の時にハンセン病と診断され、国立駿河療養所に入所、岡山県立邑久高校のハンセン病療養所入所者を対象とした新良田教室に入学。1965年多磨全生園に転園した。

 平野さんは「小学6年の時、『2学期から学校に来なくていい』と言われ、療養所に入ってから高校生になるまで家族に会えなかった。悲しかったが家族を守るために仕方ないと考えていた。多磨全生園に来てからも、外部の店で買い物して金銭をやり取りする時に接触を拒否された経験などがある。偏見・差別をなくすことは難しく、我々自身が語り部として今後長く話すことはできないが、皆さんが語り継いでほしい」と訴えた。

 この後参加者を2組に分けて、多磨全生園の石井千尋学芸員の案内で園内をガイドウォーク。亡くなっても故郷に帰れなかった2753人分(2026年5月1日現在)の遺骨が納められた納骨堂、子どもの入居者たちが学んだ全生学園の跡地、逃走防止用に入居者が掘らされた空堀から出た土を盛り、その上から故郷をしのんだという「望郷の丘」、仏教寺院やキリスト教会が並ぶ宗教地区などを次々と見て歩いた。

 1928年に入居者自身によって建設された共同生活のための長屋の居住棟で2003年に復元・整備された「山吹舎」では、内部に入って当時の暮らしについての説明があり、結婚はできたものの子どもを持つことは許されず、夫婦生活はプライバシーが保証されなかったことも明かされた。

 東京都荒川区から参加し、多磨全生園には初めて来たという50代の女性は「以前からハンセン病問題には関心があったが来る機会がなかった。ここは静かで美しく、個人としてもたまに来て散歩したくなるような所だ。このように園内を整えたのは国とかではなく入所者自身だったと聞いたのが一番印象に残った。当時自分がいたら差別に関わっていたかもしれないと思うと自分事として考えたい。今後ここをずっと残していくために少しでも協力したい」と話した。

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By 飯岡志郎

1951年、東京生まれ。西東京市育ちで現在は東村山市在住。通信社勤務40年で、記者としては社会部ひとすじ。リタイア後は歩き旅や図書館通いで金のかからぬ時間つぶしが趣味。

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