石神井川は、その流域に豊富な歴史をもっている。その一端を紹介してみたい。(カバー写真:「石神井川上流端」の標識 この先は暗渠になって小金井カントリー倶楽部に至る)
その源流はどこか、ということから始めると、これは諸説あるようだ。東京都建設局のホームページには「小平市御幸町にその源を発し」とあり、Wikipediaは小平市南町の小金井カントリー俱楽部の湧水という説をとり、明治期の川の流れと現在の川の状態を対照できるように編集された『川の地図辞典 多摩東部編 補訂版』(菅原健二、之潮)には、旧石器時代の遺跡である鈴木遺跡(小平市鈴木町、後述する)の近くが「石神井川源流」と記されている(p108)。
ただ、東京都による「上流端」の標識(写真)は、小金井公園の北西のはずれ、ゴルフ場の小金井カントリー倶楽部との境にあった。石神井川は国が管理する一級河川だが、一部の河川では都が管理することもあるというから(国土交通省 関東地方整備局のHPより)、石神井川の管理はここから始める、つまり始点はここであるという意味にとって間違いないと思う。この川は西東京市、練馬区、板橋区、北区を流れて隅田川にそそぎ、延長距離は25.2㎞となっている(東京都 建設局のHP)。そのスタート地点がここというわけだ。
『北多摩戦後クロニクル』を横断的に読む
この石神井川の「上流端」周辺については、最近刊行された『北多摩戦後クロニクル』(以下『クロニクル』)にいろいろなポイントが紹介されている。
まず、石神井川が暗渠になってその下を流れている「小金井カントリー俱楽部」。いわゆる武蔵野の雑木林とは違う空気感を漂わせているこのゴルフ場は、やはり特異な空間なのである。
この項目の『クロニクル』の解説は、戦前からの名門ゴルフ場が1946(昭和21)年、占領軍に接収される話から始まっている。やがてゴルフ場は返還され名門復活となる。目を見張らされるのはその高級さだ。都心からそこそこの距離というのが価値なのだろう。バブル期の90年前後、その会員権は4億5000万円に達したという。
現在いくらなのかはわからないが、庶民が手をだせる数字ではないだろう。正会員になるには「日本国籍をもつ35歳以上の男性」という規定もあるようだ。セレブには多様性の議論など関係ないらしい。
旧石器・縄文時代の遺跡群
石神井川の源流とされる小平市の鈴木遺跡についても『クロニクル』は取り上げている。
1974(昭和49)年、小学校の建設現場で、いまから3万8000年も前、後期旧石器時代の大規模な遺跡が発見された。この遺跡は水に恵まれており、ここからは大量の石器が発掘され、大型動物の捕獲・解体・調理がおこなわれていたことが推定されている。
ただし、定住はしていなかったようだ。そういう営みが2万年以上にわたって続いたというのは、ほかの国内の遺跡にはない特徴だという。
この遺跡からは縄文時代の遺物も出ているようだが、居住の痕跡はない。石神井川の水源が東に移動し、環境が変わったためと考えられている。この地から比較的近くにある、旧石器時代と縄文時代の重層的な遺跡である東久留米市の川岸遺跡では定住跡が見つかっている。こちらの水源はあまり移動しなかったのだろうか。素人目にも興味深い対照だ。研究の交流が進むことを望みたい。
源流説が複数あるのは、この水源の移動と関係があるのかは不明だが、いずれにしても石神井川は、その流域の文化と歴史を育んできた。田無周辺にも縄文遺跡があり、さらにその下流の東伏見付近では、縄文中期の下野谷(したのや)遺跡が発見され、国の史跡となっていることは、前回も触れた。
石神井川の氾濫
石神井川が刻んできた歴史には、人間生活にとってマイナスのものもある。川の氾濫による水害である。『クロニクル』では、高度成長期以降頻繁に発生した「石神井川の氾濫」が取り上げられている。
この時期、多摩地区では急激な宅地化が進み、それまで畑や雑木林が吸収していた雨が下水道や河川に流れ込み、それがキャパオーバーになって毎年のように住宅地に流れ込んだ。田無・保谷地区(現・西東京市)の石神井川の氾濫件数は、73年は年間8件、74年は同14件という数字も挙がっている。
こうした被害は「都市水害」と呼ばれ、石神井川だけでなく、東京郊外から都心を流れる神田川、野川、善福寺川、妙正寺川、目黒川流域でも発生し、対策が急がれた。
それぞれの河川で改修工事が進められ、西東京市周辺で大規模な被害がなくなったのは、80年代になってからだった。西東京市では河川の改修だけでなく、調整池を3箇所設けて水害に備え、昨今の〝ゲリラ豪雨〟にも耐えているということだろう。
そのような遊水池機能は、じつは公園にもある。
小金井公園の機能
小金井公園は前述のように石神井川の「上流端」になっている。小金井といえば玉川上水に沿って植えられた桜が有名だ。幕末から明治にかけての英国外交官アーネスト・サトウが書いた『明治日本旅行案内 東京近郊編』には「小金井の名物桜並木」とあり、「並木は一七三五年に将軍吉宗の命により、大和地方の吉野と常陸の国の桜川の土手から一万本の苗木が運び込まれ植え付けられた」という記述がある(この本が書かれた1881年当時、1万本は約300本に減った、とも)。
この桜並木は、公園のすぐ南、東西に流れる玉川上水を並走する五日市街道に植えられていて、現在でも桜の名所であることに変わりはない。一方、公園の北には石神井川が流れていて、公園は2つの水路に挟まれるかっこうになっている。
『クロニクル』によると、小金井公園は戦前に防空を目的とする「小金井大緑地」として整備されたのが前身。地元の農民は強制的に土地を供出させられたという。ところが戦時中は農地に転用されたりして、公園の規模はかなり小さくなっていた。
敗戦からしばらくたった1954(昭和29)年、小金井公園は都立の公園として開園された。開園当時の面積は現在の9分の1ほどだった。戦中に転用された農地はGHQによる農地改革の対象となり、農民に払い下げられていたからだ。都は57年から、失った土地の再買収を開始した。公園整備は続けられ、現在は都内最大の都立公園となっている。
93年には「江戸東京たてもの園」がオープンした。公園内も桜の名所であり、この記事が出る頃、ちょうど開花する予想になっているので、訪れる人も多いだろう。
公園の広場は、大雨が降ると雨を貯めて池のようになり、石神井川に大量な雨水が流れ込むのを防いでいる。小金井公園は、戦前は「防空」、現在は「防水」という役割が与えられ、都民の生活を守っていることになる。
石神井川はそもそも〝暴れ川〟であり、上流端からその名の由来と思われる石神井公園あたりまでは、それを思わせる別名があったようだ。また、この川は、板橋区あたりでは「音無川」とも呼ばれ、さらに歴史を秘めているが、そのことについては別の機会に。
【関連情報】
・『北多摩戦後クロニクル』(言視舎)