緑豊かで静かな一角に「お食事処 なごみ」がある。釜めしや定食、各種飲み物、スイーツ…。ごく普通のレストランに見えるが、ユニークなのは国立ハンセン病療養所多磨全生園(東村山市青葉町)の真ん中に位置し、入所者の自治会が運営していることだ。(カバー写真:「お食事処 なごみ」のみっちゃん(右)とくまさん)

 店の前にはメニューを書いた看板やソフトクリームのモニュメントのほかに「どなたでもどうぞおはいりください」との掲示が見える。一時は1500人を数えた全生園の入所者は2024年4月現在約90人にまで減少し「なごみ」は10年近く前に閉鎖の危機に直面した。それを救ったのは映画「あん」と地元のボランティア女性たちだった。映画顔負けの復活ストーリーを追った。

▼ 入りにくかった「なごみ」

 店内はテーブル席と小上がりの座敷があって個人でもグループでも気軽にくつろげる。広大な敷地内での貴重な飲食の場として入所者や訪れる人にとってまさに「なごみ」の場となってきた。

 しかし、療養所の関係者以外では地元の人々にとってもなじみは薄かった。ハンセン病への偏見が薄れ、園内を訪れる一般の人が増えても、店には入りにくかったことは事実だ。

 一気に知名度を高めたのは2015年公開の映画「あん」(監督・河瀨直美、原作・ドリアン助川)だった。樹木希林演じる入所者の徳江が自慢のあん作りでどら焼きの店を盛り立てる筋書きを通じて今も残るハンセン病への差別・偏見を穏やかに告発し、高い評価を得た。

 映画はほぼ全編東村山市内でロケ撮影され、「なごみ」もその一部だった。店内には徳江と、どら焼き屋「どら春」の店長・千太郎(永瀬正敏)が着用した衣装をはじめ、映画にちなんだ品物などが多数並ぶ。お土産用の1個500円のぜんざいはドリアン助川さんが命名した「旅する小豆(あずき)たち」。北海道産の小豆を原料に東村山市内の製餡工場が製造し、市内の障がい者施設で包装している。

 この店を切り盛りする代表者が藤崎美智子(ふじさき・みちこ)さん(72)だ。市内のすし屋女将からボランティア活動に目覚めた女性の数奇な運命と奮闘が映画「あん」も「お食事処 なごみ」も支えた。

▼ 映画制作を情熱的に支える

 藤崎さんは皆から「みっちゃん」と呼ばれている。東京都品川区で生まれ3歳から東村山暮らしだ。すし職人のご主人と結婚して市内ですし店の女将となった。今は長男が店を継ぎ、二男は向かいでイタリアンレストランを開いている。

 2011年に夫が死去するとショックで1年間引きこもり状態だったという。しかしもともとボランティア活動には積極的だったみっちゃんがいつまでも落ち込んでばかりいるはずもなく、自宅を改造して高齢者の居場所を立ち上げ「復活」をとげた。

 映画「あん」のロケ話が聞こえてきたのはそんな時だった。小説の雰囲気に合いそうな場所探しで地元の商工会などに相談していた原作者、監督らスタッフが「どら春」のセットを作る場所として白羽の矢を立てたのは、すし店も面する桜並木の通り沿いにある近くの民家の駐車スペースだった。ここの住人との仲介や消防署との交渉でも彼女の人脈と行動力が生きた。さらに、スタッフの待機や制作の拠点となる施設の確保が難航していることを聞いて自宅を提供する決心をした。

 撮影は2014年に行われ、みっちゃんたちはかいがいしく協力。スタッフへの食事提供のほか、急なエキストラ確保にも走り回った。「みっちゃんがいなければこの映画はできなかった」と断言する関係者も。

 もちろん公開までは地元にも制作の動きは秘密。「なぜ最近樹木希林が出没しているんだ?」と首をかしげる住民もいた。どら焼き屋のセットもリアルそのもの。撮影でできたどら焼きは味も本格的で近所の人に配ったりしたという。

 「何しろ初めての経験で戸惑うことばかりで、中にはいろいろな考えを持った人がいたと思います。でも私にとっては正直言って楽しかった」。そしてこの映画でみっちゃんと全生園「なごみ」が運命的につながる。

▼ 差別と闘った再婚相手

 映画「あん」の後半、「なごみ」の座敷で出演者が話し合う場面がある。樹木希林演じるあん作りの名人はここで腕を磨いたという想定だ。実はこの時「なごみ」は利用者の減少などから閉店状態だった。

 「全生園の歴史と入所者の生活を支えた象徴的な場を何とか残せないか」という声は園の内外で大きく、ここでもみっちゃんに話が持ち掛けられた。飲食店経営の実績もある彼女は地元でのボランティア活動で知り合った「くまさん」こと熊谷尚子(くまがい・ひさこ)さん(77)ら仲間と組んで2015年12月、「商売にならないのを承知で」営業を引き継いだ。

 入所者自治会員は当時約240人。ここでみっちゃんは全生園内に住み全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)事務局長を務める藤崎陸安(みちやす)さんと知り合う。

 温厚で多芸多才の人柄に加えて、「人権」では妥協を許さない確固とした姿勢に魅せられ2017年、再婚を決意する。みっちゃんは66歳、陸安さんは74歳。彼も30年以上連れ添った妻を2004年に亡くしていた。「療養所の仲間のために生きるのが自分の使命」との信条そのままに働く陸安さんに愛情と尊敬の思いを深めていった。

 陸安さんは秋田県に生まれ、こども時代にハンセン病を発病し青森県内の施設に収容された。1959年、岡山県のハンセン病療養施設「長島愛生園」内にある4年制定時高校「岡山県立岡山邑久高校新良田教室」(1987年閉鎖)に入学する。ここで大好きな野球と音楽に打ち込みトランペット演奏もこなした。

 1950年代は「らい予防法改正闘争」など、ハンセン病をめぐる差別との闘いが盛り上がった時期に当たり、全国的な入所者組織「全国らい患者協議会」(後の全患協、現在の全療協)が結成された。陸安さんは高校時代から手伝っていた全患協に卒業後勤めた。

 全患協本部が全生園内に設けられたのに伴い東京に移った陸安さんは東京と青森を往復するなどしてハンセン病患者・回復者の権利擁護と社会の偏見打破への運動に力を尽くし、2010年からは全療協の事務局長に就任した。

▼ 相次ぐ困難、悲しみを乗り越え

 一方みっちゃんは2017年、神経系の難病「後縦性じん帯骨化症」で倒れる。陸安さんの献身的な看病もあって回復すると今度はコロナ禍が、ただでさえ経営困難な「なごみ」を襲う。そして最愛の夫が2023年9月14日、脳出血のため80歳の生涯を終える悲しみに見舞われた。「曲がったことは嫌いだけど優しくて人間味にあふれ、カラオケのマイクを握った時などは男の色気も感じさせた」と、みっちゃんは声を詰まらせる。

 「なごみ」には外部からのお客の割合が増えている。「人権がいかに大切かを発信する基地として、交流の場として絶対に残さなければいけない」。

 ある時、見知らぬ女性がいかにも生きる希望を失ったかのようなうつろな表情でふらりと入ってきた。みっちゃんはお茶を出しながらじっくり話を聴いた。その後再び訪れた女性は「実はあの時命を救ってもらいました」と振り返ったという。

 幅広い人間関係を活かした取り組みは今も続く。2024年中には「藤崎陸安伝」を出版する予定だ。「それ以外にも計画があるのよ。まだ秘密だけどね」とみっちゃんはいたずらっぽく笑った。

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By 飯岡志郎

1951年、東京生まれ。西東京市育ちで現在は東村山市在住。通信社勤務40年で、記者としては社会部ひとすじ。リタイア後は歩き旅や図書館通いで金のかからぬ時間つぶしが趣味。

One thought on “【特集】みっちゃん奮闘記 ハンセン病療養施設内のレストラン守れ 映画「あん」が紡いだ絆”
  1. 映画あんの関係者の方とご縁があり
    今回、なごみを知りました。みっちゃんの可愛らしいお人柄に触れ、まだ2回しかお会いしてませんが、こちらの奮闘記を見てねと言われ拝見させて頂きました。みっちゃんがどんな方なのかを知りとても胸が熱くなり、また直ぐに遊びに伺おうと思います。

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