閉院するきよせの森コミュニティクリニック

 亡命ロシア人女性の故・武谷ピニロピさんが1950年に眼科診療所として創業し、清瀬を中心とする地域の医療を担ってきた「きよせの森コミュニティクリニック」(清瀬市元町、武谷亮院長)が1月31日に閉院し、75年にわたる歴史に幕を下ろす。患者本位の医療を提供する病院として利用者からの信頼は厚く、閉院を惜しむ声が上がっている。

 創業者ピニロピさんの人生は波乱に満ちていた。亡命ロシア人の娘で1919年10月、ロシア極東のウラジオストクから中国東北部のハルビンに向かう列車内で生まれた。ニコライ2世の侍従武官だった父親のミハエル・スワチキン氏はソビエト革命政権から逃れるため単身、日本に亡命。福島県会津若松市で紳士服店を開業し、生活のめどがついた頃、妻子を呼び寄せた。ピニロピさんは9歳だった。

 周りの協力を得ながら日本語をマスターし(会津弁も完璧だった)、福島県立会津高等女学校(会津女子高を経て現・葵高校)を首席で卒業。難関の東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)に入学、卒業した。

 1944年に理論物理学者の武谷三男氏(1911~2000年)と結婚し、武谷姓となった。しかし夫はまもなく特高警察により逮捕された。理由は日本の敗戦を公然と予言し、米国が完成させていた原爆の脅威を科学者の立場から訴えていたことだった。

 当時の北多摩郡清瀬村に「武谷医院」を開設したきっかけは、東京病院(現・独立行政法人国立病院機構東京病院、清瀬市竹丘)で結核患者の手術に当たっていた恩師を手助けするため、清瀬に足繁く通っているうちに自然豊かで牧歌的な環境が気に入ったからだった。

 眼科診療所としてスタートしたが、住民の要望でさまざまな病気の治療に迫られるようになった。患者へのまなざしはいつもやさしく、食事に事欠く患者や薬代が払えない患者には、ピニロピさん自らがパンや総菜、薬を届けていたというエピソードが語り継がれている。

 西武池袋線清瀬駅北口から歩いて5分ほど。年中無休でどんな病気も治療してくれるという評判が評判を呼び、利用者は増える一方だった。内科、小児科の担当医を置くことから始まった診療体制の拡充は外科、整形外科、皮膚科を増設。1965年には病床数150を持つ総合病院「武谷病院」に発展した。

 1993年には「医療法人レニア会」(レニアはピニロピさんの幼少時の愛称)を設立、自ら理事長に就任した。現在、レニア会は子息の武谷雄二氏が理事長を務め、眼科の「きよせの森コミュニティクリニック」のほかに「あおぞらレディスクリニック」(東村山市)、「ウィメンズ・クリニック大泉学園」(練馬区)、「アルテミス ウィメンズホスピタル」(東久留米市)を運営、地域一帯の医療を担っている。

 晩年、理事長職を後進に委ねたピニロピさんは、生涯を捧げた地域医療の充実を見届けたかのように2015年8月8日、数奇な運命に彩られた95年の生涯を閉じた。

 今年はピニロピさんの没後10年。閉院の理由は「諸般の事情」とされている。ある利用者は「会津若松から清瀬に越して来て、最初に行った眼科がここでした。医師と看護師の対応が丁寧だったことを覚えています。待合室にあった冊子で創業者が会津と関係の深い人だと知り、不思議な縁を感じました。閉院はとても残念です。長くお世話になったので感謝の言葉しかありません」と話した。

【参考情報】
・医療法人社団レニア会(公式WEB
・熊谷敬太郎著『悲しみのマリア』上・下(NHK出版
・神田香織著『女医レニヤの物語』(主婦の友社

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By 鈴木信幸

1950年、福島県会津坂下町生まれ。元新聞記者。現在、フリージャーナリスト。1980~81年滝山団地、81~97年ひばりが丘団地に住む。西東京市在住。

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