東久留米の落合川の不動橋のたもとには「不動明王坐像」が祀られている。こちらも市の有形文化財になっていて、江戸期の1826年の造立、と解説板に書いてある。前回、この不動尊の囲いに貼られたお札を取り上げる予定だったが、前振りが長すぎたため、ここであらためて述べたい。(カバー写真:「御嶽山」は奥多摩にある)

 その前に、解説板を参照しながらお不動さまについて少し。不動尊は一切の悪を断ずる存在として信仰を集めてきた。悪をやっつけるため憤怒の表情で、右手に剣、左手には密教でつかう「羂索(けんじゃく)」(縄) を持つ。像の下部には、密教系ではおなじみの梵字(サンスクリット文字)が見える。像の脇には「落合村」という村落名と寄進者も刻まれていて、前回見た庚申塔やこの像に考えをめぐらせると、江戸時代の暮らしの一端が見えるような気がする。

 さて、冒頭の写真をもう一度ご覧いただくと、黒いイヌが描かれているが、これは何? というのが今回のテーマとなる。といったものの、筆者はこの近くにある東久留米市の第二小学校に通っていたのだが、このお不動さまやお札のことはまったく意識したことはなかった。それを意識したのは、ある本を読んだのがきっかけだった。その本の名前を記すと、答はおのずとわかる。

 その本は『オオカミの護符』(小倉美惠子、新潮社、2011年)というタイトルで、カバー(表紙)には、上の写真とほぼ同じものが写っている。

 ということは、この黒い犬は日本では明治維新とほぼ同時期に絶滅したといわれるニホンオオカミなのである。

 もちろん、この本を読むまではそんなことはまったく知らなかった。ただこの護符を見た記憶はあり、あ、オオカミだったんだ、と感心した覚えはあった。といっても読んだのは10年以上前で、すっかり忘れていたところ、3年ほど前から地域の歴史に関するコラムを書くようになり、地元を違った視線で眺めるようになったとき、このお札が目に入った。いまは見えなくなってしまったネットワークがちょっと顔を出したような気がした。

 この本の著者は、川崎市宮前区土橋(つちはし)の農家の生まれ。自宅の土蔵の扉に貼られた一枚の護符、祖父母らが「オイヌさま」と呼んで大事にしていた「護符」の正体を追ってまとめたのが『オオカミの護符』という本である。著者は映画プロデューサーのようで、同名のドキュメンタリー映画もつくっている。

 川崎市宮前区土橋は東急田園都市線沿線にあり、渋谷から約30分というから、西武池袋線でいえば所沢か小手指くらいの位置関係だろうか。池袋線と違って田園都市線沿線は高級住宅街となっているようだが、住宅地のなかに農地や雑木林の名残がある、というのは北多摩や埼玉南部と似たような状況ではないかと想像できる。

 そのような東京の郊外に広がっている住宅地に、かろうじて残っているかつての農村共同体の痕跡を追っていくと、その暮らしぶりや土俗的な信仰の一端が垣間見える。納屋に貼られた護符はその地から遠く離れた奥多摩にある御嶽山(みたけさん)の武蔵御嶽神社に由来するものであることを、この本は明らかにする。

村では「講」が組織され、農作業の無事と豊作を祈念して、毎年代表を御嶽山に派遣する。その行事は「いま」も(本が書かれた2011年あたりまでは)存続しているという。

根底にあるのはオオカミへの信仰だ。オオカミはイノシシやシカなどの害獣から農作物を守ってくれるありがたい存在であることから、やがて神さまとして敬われるようになった。

護符にある「大口真神」は「おおくちまがみ」と読む。その名前の社が御嶽神社の境内にあり、その神体はオオカミである。

このオオカミ信仰は山岳信仰と習合して、武蔵国の山岳地帯に広まっていて、秩父には「オオカミ神社」が密集しているようだ。「オオカミ神社の分布とニホンオオカミの棲息域は一致する」という(同書p105)。

「武蔵国」に広がっていたオオカミ信仰

この信仰はかつての「武蔵国」一円に広がっていたようだ。

ほかの本で知ったのだが、なんと渋谷の宮益坂にも「御嶽神社」があり(渋谷郵便局の近く)、その狛犬がオオカミなのだという(川副秀樹『東京「消えた山」発掘散歩』)。同書によると、ここでは盗難、火災、狐憑き除けのために前掲とほぼ同じ護符が求められたらしい。

思わぬ場所と場所がつながっている。川崎市の土橋と奥多摩の御嶽神社は、下の図でもわかるように多摩川を介したネットワークだろう。それが渋谷あたりまでつながっているのは興味深い。

 『オオカミの護符』には、わが北多摩地区と隣接する新座市が登場し、「野火止(のびどめ)」という地名に注目している。この近辺にも「オイヌさま」の札は広まっている。先にもふれたが、オイヌさまには火除けの意味があり、「野火止」は野焼きを連想させるから、オオカミ信仰と野焼き≒焼き畑の関連を著者は指摘する。

 野焼きというのは、江戸期、柳沢吉保が川越の藩主だった時代、武蔵野の各地が盛んに開墾されたのだが、その際使われた手法だという。野を焼くのは「切り拓いた原野が再び元に戻るのを防ぎ、耕作を維持するため」(p88)だった。そして、開墾直後に植えたのは蕎麦だったという。武蔵野は「うどん=小麦」文化だと理解していたが、もともとは「蕎麦」文化があったのだろうか。

▼ 東久留米のオオカミ

 野焼きと関係があったかは不明だが、東久留米にも「オオカミの護符」が存在していたことは冒頭に述べたとおりだ。このお札がどれくらい前のものなのか、本に出てくる川崎のような講が東久留米にもまだ存在しているのか、わからない。ただ、この地にもオオカミ信仰があり、奥多摩の武蔵御嶽神社とつながりがあったのは確かだ。前回述べたように、すぐ近くには庚申講があったようだから、御嶽講があったとしても不思議ではない。お不動さんにお参りする方はいまもいらっしゃる。ほとんど消えた共同体がまだ息づいている。

つい最近まで、東久留米市南沢の道路沿いにある農家の野菜売り場にこの札があり、写真を撮ろうと思っていたのだが、建て替えられてしまった。ちょっと悔いがのこる。

ちなみにオオカミ信仰の地でいうと、東久留米だと秩父のほうが近いのかと思い、秩父三峰神社と御嶽神社に徒歩で行く場合の時間を調べてみた。前者までは約20時間、後者だと約9時間40分と出た。奥多摩のほうがずいぶん近い。こんなことがすぐにわかるとは、便利な時代になったものだ。

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By 杉山尚次

1958年生まれ。翌年から東久留米市在住。編集者。図書出版・言視舎代表。ひばりタイムスで2020年10月から2023年12月まで「書物でめぐる武蔵野」連載。

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