江戸時代から地域でその家の特徴を表すために付けられた「屋号」。60年以上活動を続けている市民団体「小平郷土研究会」は小平市内で屋号が残る家を一軒ずつ調査し、街道ごとに地図に表示した冊子『小平の屋号』をこのほど出版した。地域の記憶をとどめる貴重な資料だ。(カバー写真:『小平の屋号』表紙)

 小平郷土研究会は『小平町誌』が刊行された翌年の1960年、行政史料では伝えきれない庶民の生活文化や習俗を再発掘して後世に残すために発足した。活動の成果は『小平ふるさと物語』『こだいらの文化財みて歩き』などの出版物にまとめてきた。

 現在、40人余りの会員が食文化部会、民具部会、拓本部会などの分科会に分かれて活動している。屋号については郷土史部会を中心に役員も加わった11人が資料を基に街道沿いの家を一軒一軒訪ね、聞き取り調査を重ねた。

冊子には地図と屋号などが記されている

 結果をまとめた全13ページの冊子では、掲載の許可を得た計185軒を地図上に示し、それぞれの屋号についてカタカナ、推定される漢字、それが使われ始めた時期、いわれなどを記している。例えば「クルマヤ(車屋)大正・水車でうどん粉を挽いていた」「ヨリヤ(撚屋)江戸後期か明治初期・絹糸の仲買」などだ。

 屋号は江戸時代に名字を持たない個人を集落内で判別するため付けられ、昭和30年代まで使われていた。小平では「ゲタヤ(下駄屋)」「アブラヤ(油屋)」「コンヤ(紺屋)」といった職種を表す屋号に交じって、「オカシラ(御頭)」「ダンナサマ(旦那様)」など立場を表す屋号が主に青梅街道、東京街道、五日市街道などの街道に沿って並んでいた。「ボウヤ(棒屋)」「カゴヤ(籠屋)」「クマデヤ(熊手屋)」など農具に関する屋号が多く、新田村落だった小平の庶民の暮らしぶりが伝わる。

 6代目会長の竹内誠一郎さん(69)は「当時、現金収入は養蚕ぐらいで、生活に必要なものは全て自分たちで作り、地域全体で足りないものは互いに補いあって暮らしていたことがよく分かる。屋号を知る者も高齢となり、調査してまとめるのは今回が最後の機会になると思う。今後は地元の方言を収集して記録に残す作業を構想している」と話している。

冊子は郷土の歴史に興味があり、研究会入会を検討する希望者に無料で提供する。問い合わせは竹内さん=eメール(kodaira-takeuchi@jcom.home.ne.jp)まで。

竹内誠一郎さん

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By 片岡義博

共同通信社の文化部記者として主に演劇、論壇を担当。福岡編集部、文化部デスクを経て2007年にフリーに。書籍のライティングと編集、書評などを手掛ける。2009年から小平市在住。

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