(カバー写真:A ひばりヶ丘駅北口の踏切風景。モノクロ写真はすべて=写真提供・らかんスタジオ鈴木育男)

 ひばりヶ丘駅はこの6月11日で開業100年を迎えた。当はなこタイムスでも、そのイベントの模様が紹介されている(12日)。それを見ていて、忘れかけていた記憶にスイッチが入り、ひばりヶ丘駅周辺の昔の写真をもっていることを思い出した。

 先の記事によると、6月12~14日に西東京市役所田無庁舎2階ロビーで、7月10~13日にひばりが丘図書館1階講座室で、写真展が開催されるようだが、以前にも同趣旨の写真展をパルコで見たことがある。

 ここで紹介するのは、そうした写真群のなかでも、ご覧になった人は多くないだろうと思われる作品だ。

 作者は鈴木育男という吉祥寺の写真家(故人)。1921年に初代がニューヨークで創設した「らかんスタジオ」を継いだ二代目だった。この「らかんスタジオ」は、現在関東と東北で写真スタジオを展開している。吉祥寺で育った鈴木氏は、戦後、激しく変貌した街の記録をライフワークとしていて、吉祥寺を撮った写真集がある。そのなかに周辺地域の風景ということで、「ひばりヶ丘(西武池袋線)」というページがあった。

 今回、「らかんスタジオ」のご厚意でその写真を掲載させていただく。すべて1962(昭和37)年頃、つまり62年前の風景だ。これだけ駅前をまとめて撮った写真は貴重だといえよう。

 参考までに、定点観測的に現在の写真も添え、わかる範囲でコメントも試みる(撮影筆者)。

 この踏切の位置は当時から変わっていないのではないか。古い写真Aで、踏切を渡った左側の白い建物は交番。改札は南口にしかなく、交番の向こう(池袋より)にある。それがわかるのが、次の写真。

 この頃からホームは二つあったことがわかる。北口の住民が上りの電車に乗るには、一度Aの踏切を渡ってから改札を経て、また踏切を渡る必要があった。

 他の資料(矢嶋秀一『西武池袋線 街と駅の1世紀』彩流社)を見ると、その後、1965(昭和40)年には跨線橋で上りホームに渡る方式に変わっている。67年には橋上駅舎化された。これによって、北口に階段ができたと記憶している。

 開業時の「田無町」という駅名が「ひばりヶ丘」に変わったのは1959年のことだった。この年誕生した「ひばりが丘団地」がその名の由来となっている。真ん中の木立あたりが、下の写真の西友あたりだろうか。

 南口はいまも変わり続けている。西友の南側にある大きなマンションの場所には、かつてボーリング場があった。毎年「盆踊り」の会場となっていた駐車場は高層マンションになろうとしている。

 南口にはバスの姿が目立つ。ひばりが丘団地への足としてはバスがもっとも一般的だったからだろう。西友の前の大きな道路はなく、現在は一方通行になっている狭い道がバス通りだった。左側の馬小屋のような建物が何なのかは不詳。

 この細い道路をはさむ店舗の移り変わりは激しい。田無には「青梅街道 町並み変遷図」という冊子(道の会編、2015年)があって、道に面する店等の変遷が記録されているのだが、そのひばりが丘版があればいいと思う。

 現在、パルコになっているところ。十字架が目立っている。「イエス福音教団」という文字が読める。これは、現在もここから少し東久留米よりに存在する「イエス福音教団 東京教会」の看板のようだ。

 バスが停まっている小さい道をまっすぐ進むと自由学園に至る。駅開業の翌年、自由学園の一部施設がこの地に移転してきて、1934年には完全移転している。自由学園とこの駅との関わりは、団地よりも古い。

 以上は南口の様子だが、鈴木育男氏は北口も撮っている。次回は続編として北口を紹介する。

 なお、筆者の記憶違いもあるかもしれない。ご指摘いただければ幸いです。

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By 杉山尚次

1958年生まれ。翌年から東久留米市在住。編集者。図書出版・言視舎代表。ひばりタイムスで2020年10月から2023年12月まで「書物でめぐる武蔵野」連載。

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