与党の過半数割れとなった今回の衆議院選挙、一票の格差是正ということで東京の小選挙区では区割りの変更があった。この区割りや比例代表区制が民意を反映しやすいシステムになっているかどうかはともかく、選挙の区割りは、地域を意識するいい機会ではないだろうか。
世田谷区の一部はその昔、北多摩郡だった、と10月14日のコラムで述べた。では、北多摩郡とはそもそもどういう地域なのか、簡単に歴史を追ってみたい。ただその前に「東京20区」についてひと言。
今回の区割り変更でも小選挙区の東京20区に変更はなかった。筆者が住む東久留米市のほか、この区を構成するのは清瀬市、東村山市、東大和市、武蔵村山市で、全5市である。小選挙区になってからずっとこの組み合わせだが、数合わせだけでこうなっているとしか思えない。
感覚的に言うと横に長すぎる。東側の3市である東久留米市・清瀬市・東村山市は互いに接しているが、東久留米市・清瀬市は東大和市・武蔵村山市と接していない。にもかかわらず、この地域から「自分たちの代表」を1人選ぶというのは無理がある。文字通り十把ひとからげではないか。「多摩はそんなもんでいいだろう」という考えが透けて見えるようだ。多摩格差はこういうところにもあるといわざるを得ない。
■かつて三多摩は神奈川県だった
さて、北多摩である。時代は明治維新のちょっと前にさかのぼる。江戸時代から多摩地区には小さな村々がたくさんあった。明治維新によって政治システムが変わると、村々は品川県に属することになった。1871(明治4)年、廃藩置県にともなって品川県が廃止されると、多摩の村々は一時入間県の管轄となったが、翌年神奈川県に編入された。
そして1878(明治11)年に「郡区町村編制法」が施行され、多摩郡は四分割された。北多摩郡はこのとき誕生したわけだが、北・南・西の三つの多摩郡は神奈川県に、東多摩郡(中野など)は東京府に属するようになった。この郡には郡役所も設置されていた(1926年に郡役所は廃止)ので、郡は名目だけの存在ではなかったということだろう。
東京府としては、江戸時代から東京の「水がめ」である三多摩が神奈川県に属しているのはおもしろくないわけで、東京に編入しようと画策していたようだ。しかし、これは神奈川県に反対されて、実現しなかった。
局面が変わったのは、1889(明治22)年、甲武鉄道(現在のJR中央線)が新宿から八王子まで開通したときだった。これをきっかけにして、1893(明治26)年、三多摩を東京府に編入する法律案が帝国議会に提出され、僅差で可決成立。同年4月1日、三多摩地区は東京府に編入されたのである。
こうした動きのなかで意外なのは、保谷村が神奈川県の北多摩郡に入っていないことだ。保谷村は神奈川県ではなく埼玉県に属し、北多摩が東京府に移管した後、1907(明治40)年に東京府北多摩郡に編入されている。なぜそうなったのか未詳なので、教えを乞いたい。
明治時代、北多摩郡に属していた地域はどこか、村だとわかりにくいので、現在の名称を挙げてみよう。
武蔵野市、三鷹市、府中市、調布市、狛江市、小金井市、国分寺市、国立市、立川市、昭島市、西東京市、東久留米市、清瀬市、東村山市、小平市、東大和市、武蔵村山市となっていて、ここまでは現在も多摩地区なので違和感がない。ところが、世田谷区の一部、八幡山、船橋、砧、大蔵、砧公園といった私鉄の駅名になっている土地も北多摩郡に属している。世田谷の一部が北多摩だったというのは、このことを指している。 ちなみに、南多摩郡だったメンバーは、八王子市、日野市、町田市、稲城市、多摩市で、同様に、西多摩郡はあきる野市、青梅市、福生市、羽村市、瑞穂町、日の出町、奥多摩町、桧原村である。
■関東大震災と昭和7年の市区改正
東京は、近代化とともに膨張を続けていく。20世紀になってからは急激に都市化が進み、都市は西側に伸びていった。東京〝西進〟の決定的な要因は、1923(大正12)年の関東大震災だろう。復興の過程で、繁華街の中心は西へ移動し、住宅地も西に広がっていった。
そして1932(昭和7)年の市区改正が大きなポイントとなる。いわゆる「大東京市」35区の誕生である。「市中」と「郊外」の境界は西に動き、現在の東京の原型がこのときできたといえる。世田谷区、杉並区、江戸川区、葛飾区、板橋区など、国木田独歩が『武蔵野』を書いた時代には「武蔵野」に分類されていた土地は区になった、有体にいえば田舎⇒都市になったということである。
当時の東京は「府」で、東京市35区と多摩3郡で構成されていた。つまり府と市の二重行政機構だったわけだが、その後、東京府・東京市は廃止され東京都となる。それは1943(昭和18)年、太平洋戦争のさなかのことだった。
戦争で東京の多くは焼け野原となった。東京の再建・再編は急務だった。1947(昭和22)年、東京都の区部が22区として発足、数カ月して板橋区から練馬区が独立して23区となった。この23区は現在も変わっていない。
そして朝鮮戦争の特需を経て、日本社会は「もはや戦後ではなく」なった。東京がその変動の中心を担ったのはいうまでもない。
■北多摩郡の消滅
60年代後半、高度経済成長の流れにのって東京はさらに膨張を続け、姿を変えていった。それまで「都下」ともいわれ、「郡」に属していた23区以外の地域の「町」は次々に「市」となり、「郡」から離脱していった。
戦後の時点で北多摩郡は22の町・村で構成されていた。それが1962(昭和37)年には11の町になっている。つまり半減した。この年に小平町、64(昭和39)年に東村山町、国分寺町、67(昭和42)年は国立町、田無町、保谷町がそれぞれ市となり、北多摩郡に残るのは5つの町だけとなった。
そして1970(昭和45)年10月、狛江町が狛江市、大和町が東大和市、清瀬町が清瀬市、久留米町が東久留米市となって北多摩郡を離脱した。残ったのは村山町だったが、翌71年11月3日には村山町も市制施行・即日改称して武蔵村山市となり、北多摩郡を離脱した。
住んでおられる方には失礼な言い方になるが、この村山町は「東村山市」の村山ではない。北多摩郡には「東村山町」と「村山町」があったということだ。前述のように東村山町は一足先の64年に市制施行し、北多摩郡を離脱している。この結果、属する町がなくなった「北多摩郡」は、1878(明治11)年以来の歴史を閉じた。
南多摩郡も、八王子や町田が市となり、71年に消滅している。西多摩郡は現在も存在していて、瑞穂町、日の出町、奥多摩町、桧原村の3町1村である。
■地域内の「競争」?
最後に北多摩内の村⇒町⇒市の変遷についてふれておこう。
田無が町になったのは1889(明治22)年のことで、三鷹が1940(昭和15)年だったのと比べても北多摩地区のなかでとびぬけて早い。これは鉄道網が発達するまで交通の要衝だった田無のポジションをあらわしていると思われる。
これが市制開始となると、三鷹は前述のとおり50(昭和25)年、田無は67(昭和42)年で、順番は逆転し、圧倒的な差がついている。田無が町になった年に開業した中央線が田無を通らなかった影響は、こんなところにもあらわれているといえるだろう。
あらためて北多摩北部の自治体が「町」になった順番を挙げる。
田無(1889)⇒武蔵野(1928)⇒保谷、三鷹(40)⇒東村山(42)⇒小平(44)⇒清瀬(54)⇒久留米(56)
次は「市」になった順。
武蔵野(47)⇒三鷹(50)⇒小平(62)⇒東村山(64)⇒田無、保谷(67)⇒清瀬、東久留米(70)田無、保谷の〝凋落〟がわかる。筆者が住む東久留米はここでもビリだ。
【参照文献】
・変貌―江戸から帝都そして首都へ(国立公文書館)
・『東京都の歴史』児玉幸多・杉山博著 山川出版社 1969年
・『田無市史』第三巻通史編
・『保谷市史 通史編 3 近現代』
・各自治体の公式ホームページ
・『北多摩戦後クロニクル』収載の拙文を一部流用した