写真は、今年の11月23日の武蔵野中央公園(武蔵野市)の様子。きれいな青空が広がり、イチョウも色づいている。平和でのどかな風景といえるが、いまから80年前の1944(昭和19)年11月24日、太平洋戦争末期、米軍の爆撃機B29がこの地に爆弾を投下し、多くの人が命を落としている。これは、この後、激しく続く本土への空襲の始まりでもあった。
しばしば話題になる「東京大空襲」は翌年の3月のこと。東京を初めて襲った爆撃がここだったと想像されるのには理由がある。
戦中、多摩地区には軍需工場が集中していた。武蔵野中央公園周辺には、中島飛行機武蔵製作所があり、西東京市の現在住友重機械工業がある場所には中島航空金属があった。この2つの工場は連携して戦闘機を生産しており、日本の軍用航空機エンジンの3割近くを製造する東洋最大の飛行機製造工場だったのである*。米軍はそれを察知していて、首都を空爆するにあたって、まずは戦闘機の生産工場を潰すことを狙った、ということになろう。
多摩地区は、その後も空襲の目標となり、西武柳沢駅近くには原爆の模擬爆弾まで投下され、犠牲者が出ている。
「空爆」という言葉が頻繁に聞かれる昨今、それをリアルなものとして考えるためにも、身近な歴史を振り返ってみる必要があるのではないか。
*ひばりタイムス企画班編『北多摩戦後クロニクル』参照(言視舎)
「ひばりタイムス」のサイトも(北多摩戦後クロニクル)