自作の紙芝居を掲げる大井芳文さん

 「亡くなれば敵も味方もない。みな仏様だ」。終戦直前の1945年4月2日未明、東村山町南秋津(現東村山市秋津町)の茶畑に米軍のB29爆撃機が墜落、搭乗員11人全員が死亡した。墜落地点は幅30メートル、深さ15メートルの大穴が開き、炎と煙が数日にわたって上がった。

 燃え残った遺体や遺品はわずかでリンゴ箱1個ぐらいしかなかった。敷地に住んでいたのは小俣権次郎さん一家。仏教に深く帰依していた小俣さんは周囲の非難の声をものともせず、米兵の遺体を手厚く墓地に葬った。

 この事実は終戦後米国側に伝わり、大きな感謝を受けることになった。小俣さんはさらに墜落した敷地内に平和観音像を建てることを発願。長男権太郎さんに遺志を託して完成を待たずに死去した。平和観音は1960年11月、東村山町長、米軍ジョンソン基地司令官らも出席して開眼式が執り行われた。慰霊碑には「人類の永久平和を祈願し、在天の英霊を慰め、慈悲を求め本像を発願、建立せし次第なり…」と刻まれた。

平和観音と小俣家

▽米国の遺族探し活動も

 以上の物語は東村山市秋津町に約50年居住する大井芳文さん(79)が制作した紙芝居「南秋津の平和観音」による。大井さんは「東村山郷土研究会」会長を務める。地元の歴史、文化を調べるうちに「平和観音」の事実を知り、小俣権太郎さん、弟光明さんが地域の子どもたちに戦争の悲惨さや郷土の歴史を伝える活動をしていることに感動して紙芝居づくりを思い立った。当時を知る人々から丹念に話を聞き、自ら脚本を執筆、絵は奥さんの直子さんが描いた。

紙芝居「南秋津の平和観音」

 小俣光明さんは平和観音完成後もB29搭乗員の遺族探しを続けて米国のマスコミにも取り上げられた。1977年にはペンシルバニア州リーディング市の名誉市民証も受けた。権太郎さん、光明さんとも2024年までにこの世を去った。

 大井さんの紙芝居は2012年に完成、小俣権太郎さん宅で上演したほか、東村山市内の小学校、市施設などで披露し大きな反響を呼んだ。戦後80年にあたる2025年も2月に小学校で上演した。大井さんは「子どもたちが分かってくれるかな、と心配したが驚きながら聞いていた」「これからも機会があればどこでも上演したい」と話す。

▽準戦場だった田園地帯

 東村山市をはじめ、北多摩北部の田園地帯はのどかに見えるが、周辺に軍事施設が集中したことから太平洋戦争末期には激しい空襲を受けた。目標を爆撃した帰りに余った爆弾を投下したことや、機銃掃射による被害もあった。墜落したB29は低空での偵察飛行の際に高射砲による砲撃を受けたとされている。「のどか」どころか準戦場と言えなくもない。

 東村山市秋津町の持明院地蔵堂墓地の中に銃弾の跡が生々しい墓石がある。紙芝居の「『東村山空襲の記録』一九四五年・九回」というページによると、爆撃の対象は軍事施設だけでなく、病院、住宅地、貯水池などが含まれる。3月10日の東京大空襲で焼け出されて逃れてきた人々の住むアパートもやられて死者が出たという。

機銃掃射の跡が2か所刻まれた墓石(持明院地蔵堂墓地)

 「当時のことを知る人、語れる人がほとんどいなくなり、戦争を想像するのがますます難しくなっている。しかし今も世界中で戦争や内戦でたくさんの人が亡くなっており、命と平和の大切さを次代を築く人たち、特に子どもたちに伝えていきたい」。大井さんの強い思いだ。

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By 飯岡志郎

1951年、東京生まれ。西東京市育ちで現在は東村山市在住。通信社勤務40年で、記者としては社会部ひとすじ。リタイア後は歩き旅や図書館通いで金のかからぬ時間つぶしが趣味。

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