(カバー写真:A 踏切よりひばりヶ丘駅北口を望む。モノクロ写真はすべて=写真提供・らかんスタジオ鈴木育男)

 先週に続いて、今回も吉祥寺の写真家・鈴木育男氏の写真によって1962(昭和37)年のひばりヶ丘駅周辺の風景をお届けする。

 貴重な記録の掲載にご協力いただいた「らかんスタジオ」に感謝したい。

今回は駅北口の様子を見る。定点観測的に現在の写真(筆者撮影)も添え、わかる範囲でコメントも試みる。筆者の記憶違いもあるかもしれない。ご指摘いただければと思う。

 Aの写真に「踏切よりひばりヶ丘駅北口を望む」という説明がついていた。前回説明したようにこの時代、改札は南口にしかなく、北口から直接改札に通じる階段(かなり急だった)ができるのは橋上改札ができた67(昭和42)年のことだった。

 だから、この時点で「北口」はここなのである。

 ここの様子は変わっていない。変わるのは、西武池袋線の高架がここまで延びるときだろうが、いつのことになるのだろう。

 ほぼ同じアングルで撮影したら、偶然、軽自動車が踏切に入るところだった。

 ということで、北口「駅前」はこのようになっていた。

 看板にある「朝日屋金物店」は、もう1本裏手の路地にいまも健在。「蓮村医院」の看板が見えるが、これは右の道をまっすぐ進み、「北口商店街」に入った右側にあった。そこそこ大きい病院で、筆者の友人が盲腸で入院したことがあった。夫婦の医師が、二人で診療に当たっていたが、二人は続けざまに亡くなり、あっという間に病院が消えてしまったのを覚えている。

 角のとんかつ店の場所は、写真の現像店だったと記憶する。その横に立ち食いそば店があった記憶があるが、時代の認識が違っているかもしれない。

C  北口駅前通り

 この写真でははっきりしないが、現在の北口ロータリーに向かう小さな路地はこのときからあったと思う。その路地の入口(線路際の不動産店の向かい)に、書店があった時代があった。やがてこの書店は北口階段前に移動し、長く〝駅前書店〟をやり、支店もいくつか経営していたこともあったが、残念ながら廃業した。

 この北口には、もう一軒書店があった。北口商店街に入る小さい十字路の左側手前、現在すし店のところだ。半分書店半分レコード店、という時代が結構続いた。ここで小学生の筆者は週刊マンガ雑誌を定期的に立ち読みし、ときどきしかマンガの単行本を買わない、ありがたくないガキだったと思う。やがて、書店のスペースをレコード店が占めることになった。

 このレコード店、のちにレコード会社の営業をやっていた人に聞いたのだが、業界でけっこう有名だったそうだ。店長らしい中年のオバサンの押し出しが強く、レコード店回りの営業マンは苦労したという。たしかに、そういうキャラだった。中学時代、友人がこのオバサンともめたことがあった。オバサンが「ウチにもお客を選ぶ権利がありますから」と啖呵を切ったのを目撃した。

 要するに北口のこのあたりの構造は、変わらないというか、変わりようがない。

 新しい道ができても、細い道はめったに拡幅されない(つぶされることはあるが)。店が入れ替わっていくだけだ。細い道は〝地形〟と同じような機能を果たしている。なくなってしまった店が圧倒的に多いなかで、細い道だけ残っていく。道は歴史の目撃者だといっていい。

 いまある店が健闘されることを祈りたい。

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By 杉山尚次

1958年生まれ。翌年から東久留米市在住。編集者。図書出版・言視舎代表。ひばりタイムスで2020年10月から2023年12月まで「書物でめぐる武蔵野」連載。

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