(カバー写真:昭和24年。中央にL字型の貯留槽があり、その左に駅舎やホームが見える。左端の小金井街道大踏切の位置は現在も変わらない=国土地理院空中写真USA-R3163-64の一部)
たしか高校3年生の時のこと。政治経済の授業の雑談の中で「西武線は、昔『おわい電車』と呼ばれていたんだ」と先生が発言した。
昭和50年代後半の話だ。その先生は定年を過ぎていて、非常勤講師として教えていたから、大正生まれだったに違いない。中央線沿線の住民らしく、ちょっと西武線を見下した発言のような感じが、当時の私の印象の中にある。
高校は武蔵野市の北のはずれにあり、生徒は中央線利用者よりも西武線利用者の方が少し多かったと思う。なにも生徒の半分以上を敵に回さなくても、と思って聞いていた。
高校時代の私は、それまで『おわい』という言葉を意識したことがなく、どんな字を書くのかもわからなかった。漢字で書いた『汚穢』は、音で聞くよりずいぶんとひどいものという印象を受ける。本稿では以後『糞尿輸送』という言葉も使うが、これもけっこうな言葉ではある。
記録によると、西武池袋線の前身である武蔵野鉄道は、既に大正末期から昭和初期にかけて糞尿輸送を行っていたらしい。下水がなかった時代の都市の糞尿を、それを肥料として必要としていた近郊の農村に届ける手段として、かなりエコな、SDGsな取り組みだったと言えるのかもしれない。
もっと調べてみると鉄道以前には人力で運んでいたという記録もある。今の地下鉄江戸川橋駅あたりから椿山荘に向けて上っていく「(旧)目白坂」では、糞尿をたくさん積んで重くなった荷車(リアカーのようなもの?)が坂を上れないので、その手助けをする「押し屋」という商売もあったとのことである。ちなみに現在の「目白通り」は当時「清戸道(きよとみち)」と呼ばれ、清戸(現在の清瀬市上清戸・中清戸・下清戸・下宿(旧清戸下宿))につながる道として知られていた。「目白坂」は「清戸道」の始まりに位置していた。
話が逸れた。今回の本題は『おわい電車』による『糞尿輸送』である。
西武線の糞尿輸送は昭和初期にいったん終了したものの、その後戦時中に再開されたという。以前の糞尿輸送は小規模であったというが、戦時中から戦後にかけてのそれは専用設備を設置して大々的に行ったとされる。
いま、清瀬市郷土博物館で行われている「清瀬駅100年の物語~駅とともに歩んだマチ 清瀬~」の中に、まさにその専用設備に関する展示があった。場所はもちろん清瀬駅である。
展示された地図によると、現在の北口を降りて右側にあるアミューの裏側、西武バスの車庫あたりにその施設はあったようだ。
その施設とは何か。糞尿の貯留槽である。簡単に言えば巨大な肥溜めだ。そんなものが駅前の一等地にあったのだから、すごい時代だった。
清瀬駅開業100周年記念誌(清瀬市発行)掲載の資料によると、「(昭和)20年、東京都のし尿処理のため駅の東側に大きな溜(貯留槽)ができ、側線(専用の線路)も引かれた。(中略)七から十両編成の特別列車が、多いときは一日に三往復も運転されていた」(西武第51号 西武鉄道発行)とのことだ。さらに続けてこういう記述もある。「池袋線を利用する人たちは、居眠りをしていても清瀬にくると、芳香が鼻をくすぐり思わず清瀬だとわかったそうである」。
戦時中や終戦後に東京でこの種の輸送をしていたのは現在の西武線と東武線くらいであったという。なぜ国鉄(JR)や東急で行われなかったのか。そのあたりにも興味があるが、経営上の都合が大きいのだろう。もし中央線でも行われていたら、あの先生はどんな説明をしてくれただろうか。
[…] そして7月18日、はなこタイムス「北多摩駅前物語」清瀬編も強烈だった。西武池袋線の前身・武蔵野鉄道は、かつて都市部の糞尿を肥料の原料として運んでいたことがあり、「おわい電車」というありがたくない異名があったことは知る人ぞ知る話だが、その貯蔵地が清瀬駅そばだったとは! こういう歴史は水に流さないほうがいい。清瀬市がそれを公表しているのは評価に値すると思う。 […]