現在の保谷駅北口ロータリー

 「もう少しだ。もう一頑張りで着くぞ」

 息も切れ切れながら、皆で声を掛け合って走った。保谷高校を出て、ゴルフ場(今はない)のところで線路を北側に渡って保谷駅北口を目指した。目的地は立ち食いの「山田うどん」である。

 私が高校生の頃だからもう半世紀近く経つわけだが、今はないその頃の「山田うどん」は、保谷駅北口の線路脇の〝小屋〟だった。

 現在のように再開発される前の北口は、出るとすぐ小さな商店や民家があり、ひばりケ丘方面から保谷駅北口へは、線路伝いに民家の間を縫うような通路とでも言うべき細い路地だった。駅出口横の自転車置き場の一角とでも言うべきところに、たしか「山田うどん」はあったと記憶する。

 東京都立保谷高校から保谷駅までは徒歩15分ほどだが、これを走るとなると結構きつい。体育苦手の者にとってはなおさらだ。しかし、うどん食べたさに走った。体力が続かず、途中歩きながら。

◾️授業を抜け出して

 体育の授業を抜け出して走っているのである。当時、体育の授業は2クラス合同のものがあって、そういうときは団体競技だった。サッカーが多かったと思う。当然ながらフィールドに立てる者は限られる。サッカーなら1チーム11人だから2チームで22人。2クラスとなると40人くらいになるので、20人くらいは交替要員。補欠だ。

 先生は審判になるので、補欠まで目が届かない。選手になるのは体育好きで能力もある人たち。補欠は体育苦手で、そもそも体育嫌いな人が多い。だから、放っておかれると自然と小グループができてテンデンバラバラなことを始める。

 真面目に試合を観戦している人もいたが、ある午後の授業の日、私たちのグループは「腹が減った」という人もいて、うどんを食べにいこうということになった。食べ盛りの高校生である。昼はもちろん食べたが、一段落すればまた食べたくなる。

 保谷駅まで走って行って、うどんを食べて、また走って戻る。授業の終わりまでに戻ればバレない。一応保険を掛けて、もしいないことに先生が気づいた場合には「学校の周りをマラソンしに行きました」と答えてくれ、とグラウンドに残る仲間に頼んでもいた。結局先生から問い質されたことはなかったから一度もバレたことはなかったのだろう。こういうことを何回か繰り返したものだった。

 だから、体育の授業にチーム競技は適さないと私は思っている。メンバーに定員があるので、必ず補欠が出る。言わば落ちこぼれだ。補欠の面倒をみるような仕組みがあればいいのだろうが、先生が審判に入って試合に熱中してしまっては、補欠は見学者と同じだ。体育嫌いの者は、そもそもサッカーなどのルールもろくに知らないし、興味がないから自ら学ぶなどあり得ない。

◾️「安さ早さの山田うどん」

 安くて早い、味もまあまあ、ということで「山田うどん」は高校生には評判がよかった。この「早い」というのが重要で、弁当を持ってこられなかった場合も、昼休みに保谷駅に走った。当時、私たちの間では「味のコタン」(ひばりが丘プラザにあったラーメン店)「量の大勝軒」(保谷南口駅前のラーメン店)「安さ早さの山田うどん」と言われていたが、ラーメンは時間が掛かるのでこのような場合は選択肢にならなかった。今でこそファミレス展開してこんなに有名になるとは思わなかったが、当時は立ち食いの小さな店だった。

 たしか、保谷駅を含め西武池袋線の多くの駅(近く)にあったと思う。所沢が「山田うどん」の発祥の地だから、西武線沿線展開は自然なことだったろう。「駅蕎麦」の走りだとも思われる。しかしこの後、西武線の駅蕎麦は「狭山蕎麦」に次第に取って代わられて「山田うどん」は減っていった記憶がある。駅の立ち食いがなくなっていき、ファミレス型が増えていったので業態転換を図ったものと思われた。これは私の思い込みでもなかったようで、

 《70年代はロードサイド&駅前店の両面展開だった。富士そば的な駅前店は次々に姿を消し、まぁ、今は南浦和店(現在は閉店)のような例外はあるけれど…》(北尾トロ・えのきどいちろう著『愛と情熱の山田うどん まったく天下をねらわない地方豪族チェーンの研究』河出書房新社(河出文庫)、2022年、p.111)

と記述されていて、1980年代に急速に駅蕎麦業態は消えていった。

◾️「駅蕎麦」という文化

 ここに言及されている南浦和店だが、私が30年前の1994年に保谷市から浦和市(現・さいたま市)に転居したとき、JR南浦和駅東口を出たところ(階段を降りた正面)に「山田うどん」があったのだ。7人程度しか入れない立ち食いカウンターだけの狭い店だった。

 私の「山田うどん」の原点は高校生のときの保谷駅北口だが、30歳代半ばを過ぎて転居した先の駅前にまで立ち食いの「山田うどん」が存在していたことに驚くとともに妙な縁を感じたものだ。もちろん、何回かはここで食した。懐かしい味だった。上に引用した本にも「特殊山田」として「南浦和店」という1項目を設けて取り上げられている。

 《現在、ロードサイド展開が主流の山田うどんにあって、稀有の駅前店だ。駅そばであっても何の不思議もないたたずまい。自販機で食券を買って、立ち食いカウンターで渡すスタイルからしてフツーの山田ではない。このたたずまいこそ70年代に山田が目指した駅前展開のなごりだ。80年代に入って山田は駅前展開に見切りをつけ、本格的にロードサイドに定住していくのだが、絶滅したかに思われていた駅前店が奇跡のようにポツンと残っていた。》(同前、p.152)

 南浦和店は2022年に閉店した。開店がいつだったか分からないが、1970年代の駅前展開の時期だとすれば半世紀をここで営業してきたことになり、私が知ってからでも28年間立ち食い業態であり続けたわけだ。

 「山田うどん」の歴史は不明なところが多く、その運営会社である山田食品産業株式会社のHP中の会社沿革を見ても、1966年4月に「ドライブイン型うどん店を開始」とあるが、駅蕎麦型を展開していたこについては全く触れられていない。会社によっては店の開店・閉店を事細かく記しているところもある中、何だか歴史から抹殺されているようで寂しいものがある。

 ともあれ、高校時代に「山田うどん」目指して仲間と走ったことが私にとっての保谷駅北口の原風景である。

【関連情報】
・会社沿革(山田うどん公式HP

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By 新谷靖

1959年保谷市生まれ。1994年に転居するまで、親の転勤で北海道で過ごした小学校4年間を除いて保谷市に住んだ。

One thought on “【北多摩 駅前物語】保谷駅北口「山田うどん」目指して駆ける”
  1. 懐かしいですね。
    山田うどんの創業者は、志の高い人だったそうです。
    にしても、授業中抜け出すとはツワモノ。

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