西武柳沢駅周辺の航空写真(1960年代半ば)=筆者所蔵

 西武新宿線の西武柳沢駅は急行が止まらない地味な駅で、西武鉄道によると同線29駅中の1日平均乗降客数が1万5433人(2023年度)で下から2番目だ。ところで駅名になぜ「西武」が付いているんだろう?この駅が開業した1927年当時からこの駅名らしい。たとえば「西武新宿」なら、新宿はいろいろな線が集まっているので付ける意味が分かる。しかし他線と紛らわしいわけではない「柳沢」になぜ必要なのか。

 最近になってやっと分かったが、長野電鉄河東線(木島線)に「柳沢」があったためという。ちなみに読み方は「せいぶやぎさわ」と「やなぎさわ」。同一駅名があってはならないという決まりがあるのかどうかは知らないが、利用客にとって紛らわしい訳ではないだろう。おまけに木島線はとっくに廃線になり「柳沢駅」はもうない。

▼「駅裏」だった南側

 筆者はこの駅がある保谷市(現西東京市)で育った。中学の3年間(1964-67年)は駅南側にあった木造2階建て校舎の保谷市立保谷中学校に通った。保谷中は1968年に約700メートル北東に移転した。

 そして跡地にはバスターミナル、高層の都営住宅、市立図書館、商店などが建ち、すっきりした姿になっている。保谷中移転前は西武柳沢駅に南口はなく、周囲は木造平屋建ての主に都営の住宅が囲んでいた。覚えている限り店らしい店はなかった。

 中学校の卒業アルバムで1960年代半ばごろに撮影されたとみられる航空写真を見つけた。それには、西武新宿線の南側は中学校の敷地と、整然と並ぶ住宅、おそらくは宅地化を待っている畑が見える。およそ駅前のイメージからは程遠い。まさに駅裏だ。

▼何でもそろう生活の拠点

 それと比べて北口は全く異なる様相だった。航空写真を見ても線路北側は様々な建物が密集して「街」を作っているのが分かる。駅のすぐ北側には狭い富士街道が通って、両側に約300メートルにわたる商店街があった。

 ほとんどが個人商店で、高級品、ぜいたく品はないが、衣食住の日常生活に必要なものはすべて手に入り、結構近所の買い物客でにぎわっていた。筆者も書店、文房具店、プラモデル屋、レコード屋などにずいぶんお世話になった。部活の帰りに友達と牛乳屋に寄って「ファンタ」やコーヒー牛乳をがぶ飲みしたものだった。小遣い銭のほとんどがこの商店街に消えた。

 もともと駅前広場と言えるようなものはなく、道は狭くて雑然としていた。なぜか再開発や区画整理される気配もないままにだんだん赤さびたシャッターが目立つようになった。

▼逆転の発想で生き残る商店街を

 あれから商店街はどうなったのか。2024年も師走に入った街並みを歩いてちょっと驚いた。「それなりに復活している!」。幅5メートルほどの道路を挟んでさまざまな業種の店が軒を並べている風情は昔をほうふつとさせる。中学の同級生が経営する金物店は今も営業中で、かの牛乳店も健在だった。一方で、フィットネスジム、フリースクール、パソコン教室といった今風の施設も見えて、決して「レトロ」だけが売り物ではない生きた街になっている。

 西のはずれに近い一角に駄菓子屋「ヤギサワベース」があって、子供たちをはじめとして賑わいを見せている。店主の中村晋也さん(50歳)はデザイナーが本職で、たまたま知り合った商店街のメンバーに勧められて2016年にこの店を開いたという。今は約90店舗が加盟する柳沢北口商店街・柳盛会の運営に「最若手」として腕を振るっている。

 店いっぱいに駄菓子のほか文房具、おもちゃ、昔懐かしい生活用品などが並んでいる。近所の人や知り合いから「寄付」されたため売り物ではない品物までごちゃ混ぜだ。店の一角で中村さんに話を聞いた。

 なぜ駄菓子屋を?

 「僕自身引っ越しが多くて友達がなかなかできなった。そんな時街の駄菓子屋は子どもたちが集まってすぐに知り合い、仲良くなれた。そんな場が好きだったんです。あと、古い物も好きで」

 この商店街の魅力は?

 「これまでに再開発の話が何度もあったけどなかなか進まなかった。そのおかげでチェーン店があまり入ってこず、昔ながらの細い道と個人商店中心の風情が図らずも残された。以前みたいに“何でもそろう”とはいかなくなったが、わざわざよそから買いに来るような特徴ある店も多い」

 今の悩みや課題は?

 「経営者の高齢化や後継者難による閉店に歯止めをかけるのが難しい。閉店後は店ではなくて普通の住宅になってしまいがち。どこでも同じでしょうが」

 商店街の将来について

 「駅前のロータリーや道路を広げるといった再開発の話は今もあるが、それによって失われるものも大きくて必ずしも賛成できない。商店街が店舗の種類や経営を決めることはできないが、『こういう店も入ってほしい』というようなことを相談しながらつくり上げていけたらいい。個人商店ならではの特徴や若い感性を生かした魅力を広げていきたいですね」

 商店街は「やぎさわマーケット」「やぎさわ まちゼミ」といったイベントに取り組んできたがコロナ禍などで困難に直面した。中村さんは仲間と力を合わせての復活と再活性化に希望を託している。

【参考情報】
・ヤギサワベース(Facebook
・連載「まちおもい帖」第11回「いま、柳沢が熱い!」富沢このみ(ひばりタイムス

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By 飯岡志郎

1951年、東京生まれ。西東京市育ちで現在は東村山市在住。通信社勤務40年で、記者としては社会部ひとすじ。リタイア後は歩き旅や図書館通いで金のかからぬ時間つぶしが趣味。

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