ひばりヶ丘駅北口、現在パチンコ店になっているこの場所に、サウナ「ビッグ」はあった

 コロナ禍を挟んで世の中は「サ道」とかでサウナブームのようだが、友人に誘われて初めてサウナに行ったのは確かまだ学生だった22~23歳の頃だったと思う。夏の引っ越し作業を皆でやって汗だくになったことから、誰かがサウナに行こうと言いだして行ったのだった。

 「タヒチ」というサウナだった。最寄駅は田無駅になるが、駅からは少々離れた新青梅街道沿いの田無ファミリーランドの中にあった。高温のサウナで発汗して水風呂に入る気持ちよさ、休憩室でのビールの一杯、横になれる、仮眠できることなどもあって、銭湯よりもはるかにゆったりできて病みつきになった。以来今日まで、断続的にいろいろなところで入浴するようになって私のサウナ歴は40年を超えた。

▼ひばりが丘・田無地域サウナの盛衰

 その当時は銭湯以外の「風呂」はサウナくらいしかなく、それも男性用だけというところがほとんどだった。「タヒチ」の場合は、田無ファミリーランド内にゴルフ練習場があり、ゴルフを終えて寄っていく人も結構いたような気がする。24時間営業のところも多く、終電を逃した人とか出張族がホテル代わりにサウナに泊まる、という話もよく聞いた。そういうことだから、都心を中心にカプセルホテル併設のところもあった。

 それが、1980年代終わり頃だったか、サウナを設備した日帰り温泉施設が急に増えて、値段もサウナより安かったこともあって人気が出た。サウナだけのところは淘汰されていった。温泉施設であるから、銭湯と同様に男女両方があるので、夫婦やカップル、家族で使えることも人気を呼んだ理由だったようだ。

 サウナ・日帰り温泉・銭湯・スーパー銭湯等を温浴施設というらしいが、これにフィットネスジムなどを併設して「健康」を謳うところもある。実際、温泉とフィットネスジムなどを併設している施設について、厚生労働省が「温泉利用型健康増進施設」に認定する制度もできた。

 サウナ室にしても今はロウリュ(*)があるところも多く、熱波師によるアウフグース(**)といったイベントも増えた。また、近頃はサウナ浴よりも岩盤浴が人気のようでもある。設備を更新しないと旧式サウナは消えゆく運命にあるかと思う。実際、ひばりが丘・田無地域にあった「ビッグ」「タヒチ」「ジャンボ」はすべてなくなった。

 *)ロウリュ(löyly):サウナストーブ上の熱されているサウナストーンに水をかけて水蒸気を発生させるサービス。フィンランドで始まった。体感温度が上がって発汗が促される。今ではいろいろな工夫がなされ、アロマオイルを加えた水でのアロマロウリュなどもあり、また、従業員が柄杓でかける手作業のものの他に、自動的・定時的に天井から水を降らしたり、水蒸気の強さを調整できたりするオートロウリュもある。

 **)アウフグース(Aufguss):ロウリュで発生した水蒸気を従業員がタオルであおいで客に熱風を送るサービス。ドイツで始まった。サウナ室内に熱気が広がり、直接熱風を浴びた客は一気に発汗が促される。今ではこれを職業にする「熱波師」がいて、各施設でイベントとして行われている。日本サウナ熱波アウスグース協会は熱波師検定を実施しており、また、その技術を競う全国大会は「熱波師甲子園」とも呼ばれている。

▼「ビッグ」はひばりヶ丘駅北口にあった

 上記の「タヒチ」や、そこから滝山団地方面に進んだところにあった「ジャンボ」にもときどき行っていたが、通うようになったのは西武池袋線ひばりヶ丘駅北口にあった「ビッグ」だった。北口も今は変わってしまったが、道路が保谷方面と新座方面に分岐する角にあった。第一勧業銀行(現・みずほ銀行)の並び、西友が南口に移転した後にビルが建ち、1階がパチンコ店、2階がサウナで、ともに「ビッグ」という名だった。

 1980年代半ば過ぎから1990年代半ばまで、仕事帰りに、週に1回は行っていたと思う。駅北口にあったスナックの従業員と知り合いになり、ここを教えてもらったことが、通うようになったきっかけだった。ひばりヶ丘駅は私の最寄駅だったし、露天風呂など外の設備はなかったが、駅近で、仮眠室があるのがよかった。「タヒチ」や「ジャンボ」はクルマでないと不便な立地で、「サウナ後のビール」ができないのがネックだった。

 サウナ室内や休憩室には大体テレビがあり、普段あまりテレビを見ない私はサウナで見ることが多かった。また、休憩室には週刊誌やコミックが備えられていた。漫画も、ビールを飲みながら何回かかけて読破したものがほとんどだ。漫画本はかさばって自宅では置き場に困るので自分では買わないのだが、数十巻にも及ぶ漫画を何回かかけて読み通せるというのは喜びだった。そういうこともあって、「サウナとはいいところ」なのである。

▼サウナで「目撃」した出来事

 サッカーのあの「ドーハの悲劇」は、この「ビッグ」の休憩室のテレビで見た。

 1993年10月28日(木)。私は前日から会社の研修施設で1泊2日の研修を受け、研修終了日のこの日は通常勤務より早い退勤になって、「ビッグ」には18時半過ぎくらいに入った。時間に余裕があったので、途中仮眠を挟んで4セット(サウナ浴・冷水浴・外気浴で1セット)を2回こなした。

 この計8回入るというのは、実はサウナ協会だかによる「サウナの入り方」といったポスターが店内に貼られていて、そこには「1セットを4回で1クールとし、それを2クールやると効果的」という旨が記されていたので、「そうなのか」と思い実践した。当時は私もまだ若かったこともあり、時間のあるときは律義にそれをこなしていた。だから、休憩室に入ってビールをやりながらテレビを見始めたのは遅い時間になってからだった(「ビッグ」はサウナ室内にテレビはなかった)。

 放送されていたのは、カタールのドーハで行われたサッカーワールドカップ予選の日本対イラク戦で、後半も終わりに近かった。2対1で日本が勝っており、他のお客さんはすでにテレビに釘付けになっていた。どうりで浴室がいつもより閑散としていたわけだ。

 サッカーにはそれほど興味がなかったし、当時の日本はあまり強いとは私は思っていなかったのでほとんど見ていなかったのだが、勝てそうな展開にこのときは私も注目した。そして2対1の勝利状態で後半戦が終わった。しかしロスタイムに入った直後だったと思う、イラクにゴールを決められて同点になった。瞬間、店内がどよめいた。そして、引き分けでの終了と同時に日本の本戦出場は潰えた。

 すでに閉店時間を過ぎていて、従業員による閉店アナウンスもあったものの誰も帰ろうとせず、試合の状況もあったのでそのまま従業員も片付け作業を続けていた。試合が終わっても興奮醒めやらないのか誰も帰ろうとしなかったので、ついにちょっと強面の従業員が、

 「もう閉店時間を過ぎているんですよ」

 と強い口調で宣言するように言った。それで皆、ようやく帰り支度を始めたのだった。

 「清瀬・旭が丘派出所警察官殺害事件」も、この「ビッグ」のテレビで知った。

 1992年2月14日未明、清瀬市旭が丘にある東村山署旭が丘派出所で、1人で勤務中だった警察官が刃物で襲われて殺害され、実弾入りの拳銃が奪われた。今もなお犯人が捕まっておらず、事件は2007年に時効に至り、迷宮入りとなった。

 この清瀬市旭が丘というのは旭が丘団地のある場所で、旭が丘派出所(交番)は団地の中にあると言ってもいい。高校の同級生が旭が丘団地に住んでいたので、高校卒業後もしばらくは彼を訪ねたりして、この界隈は私にも馴染み深い所だった。高校以降の生活圏の一部で起きた殺人事件で、強い衝撃を受けたことを覚えている。

 事件が起きたのは「未明」だから、深夜から明け方にかけてなのだろうが、私がこの事件を知ったのは、この当日である2月13日(金)の夜、「ビッグ」でサウナ後の一杯をやりながら見たテレビのニュースだった。この日は勤務を終えて20時半くらいに「ビッグ」に入った。この事件はサウナ室内でやはり大きな話題になっており、聞こえてくる会話から事件の内容を大体つかむことができた。中には、

 「犯人は意外と平然とここのサウナとかに入っていたりして」

 などと言う会話も聞こえた。そういえば「ゴルゴ13」もよくサウナに入ったりしているし、地理的にもあり得ないこととは思えなかった。サウナを上がって見たテレビで事件の詳しい経緯を私は知ったのだった。ひばりが丘界隈でも、何か(奪われた拳銃で)事件が起きるかもしれない、としばらくは緊張感が漂っていたかと思う。

 迷宮入りになってしまった事件だが、奪われた拳銃が発見されていないために今もその捜査は継続されていて、東村山署では拳銃の情報提供を受け付けているそうだ。

 この2つの事件は衝撃が大きかったので、それを知ったひばりが丘駅北口、サウナ「ビッグ」という場所の記憶と今も分ちがたく結びついている。

★編集部注 「清瀬・旭が丘派出所警察官殺害事件」については、ひばりタイムス連載「北多摩戦後クロニクル」で詳しく取り上げている。なお、「北多摩戦後クロニクル」は書籍化されている。

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By 新谷靖

1959年保谷市生まれ。1994年に転居するまで、親の転勤で北海道で過ごした小学校4年間を除いて保谷市に住んだ。

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