現在のひばりヶ丘駅北口、かつての極細道路の名残。保谷駅方面に向かっているが、この道をまっすぐ行っても保谷駅には到達できない

I. 便利な駅と迷宮の道

西武池袋線のひばりヶ丘駅は急行停車駅です。特急やS-TRAINといった特別な形態の列車を別にすれば停まらないのは「通勤急行」くらいで、非常に便利な駅だといえます。しかし、周辺の道路が複雑でおまけにほとんどの道が狭く、クルマの便は悪いという便利さと不便さの二面性を持っています。 とりわけ北口の道路はすさまじかった。近年、駅前にロータリーができ大きな道が整備されて、かなり改善はされましたが、昔からの“極細道路”はまだまだ残っています。この地に長く住む人でも、北口周辺にクルマで進入することをできるだけ避けようとしていると聞きます。

1950年代、60年代、急激な都市化の波が東京の私鉄沿線に押し寄せました。ろくな都市計画もない(としか思えない)まま、昔の農道にそのままアスファルトを流し込んだ舗装道路が数多くでき、それがいまだに残っているから、当然といえば当然です。

整備されたひばりヶ丘駅北口

しかし、これは西武池袋線だけに顕著かというとそうではありません。都内から郊外へ向かうタクシー運転手にとっても複雑な道路事情は、悩みの種のようです。これはある運転手に聞いたのですが、世田谷区とひばりが丘は道がわかりづらく、「行け」と言われると困ることが多い、「××駅に行ってくれ」と言われても、まずたどりつけない、とこぼしていました(ナビのなかった時代の話です)。

世田谷区については、世田谷区の一部は昔「北多摩郡」だったこともあり、“農村”だった名残と考えられます。世田谷の迷路のような道路をネタにしたドラマがあったくらいです(ドラマ『上品ドライバー9 世田谷経堂迷路』98年)。

こうした事情は、東京の郊外は多かれ少なかれそんなもんだ、といえますが、ひばりヶ丘駅周辺は度を越しています。

なにしろ隣の保谷駅や東久留米駅へクルマでは簡単にたどりつけないのです。これは大きい道ができ、ナビ時代になっても基本的に同じです(ナビがいつも最適解を出すわけではないので)。

比較的早く整備された南口の場合でも、保谷駅に行こうとすると駅からまっすぐ南下、新しくできた大きな道との交差点を左折すると保谷方面ですが、やがてT字路に行きあたります。さて、保谷はどっち? 知らなければ行けません(この場合、ナビは有効ですが)。

東久留米へはもっと難解です。自由学園の脇を通って行くと近いと思いますが、どこを曲がれば自由学園方面に行けるか、知らなければ無理でしょう。ナビが教えてくれるかもしれませんが、すれ違いも厳しい極細道路を通ることになるか、かなり迂回経路を案内されるでしょう。

開発が遅れた北口には、埼玉県の新座市や保谷方面に行く大きい道ができましたから、いまは保谷駅へはその道をたどっていけばいいようになりました(結構遠回りですが)。ただ、北口が整備されるまでは大変でした。北口にはクルマが入れるスペースはなく、タクシーも南口で拾わなければなりません。保谷方面に行くには、交通量が多いのに細い道しか接続していない踏切を北口に渡り、恐ろしく狭い十字路(現在も同じ)を右折すれば保谷に行ける(はず)ですが、ずっと極細の道が続いています。まっすぐ行けば保谷駅と思われる道はやがて住宅街に突入します。その先は知る人しか保谷駅にたどりつけなかったと思います。

東久留米方面へは、線路脇を道が通っています。これをたどれば行けそうだ、と思いたくなります。実際、道なりに行くと、途中の電信柱には「東久留米駅方面」という看板もあります。でも、ほとんどウソです。道なり(とはいってもすぐに左折が必要)に行っても、やがてその道は大きな畑(現在、住宅が建設中)に直面します。ちょっと左にあるまっすぐの道はクルマで進入したくない狭さ、右はどこに行くのか想像がつきません。いわばここで道は消えてしまうのです。

上記の看板  
看板の近くにある危険な踏切。事情を知らない人が進入すると、進退に窮する可能性がある。一方通行にするしかないのでは

後で述べる奇譚は、こうした複雑な道路事情が背景になっていると思われます。

II. 再開発が変えた街の風景

前述のように、近年、駅の北口は大きく開発され、大きなバスターミナルができ、新座方面から真っ直ぐにアクセスできるようになりました。

それまで北口は、昔ながらの飲み屋がひしめき合う、ちょっとした迷路のような街(魔窟)でした。駅の2階にあった改札口からの通路を経て北口の急な階段を降りると“魔窟”がありました。そこは独特の飲み心を誘う場所でした。

かつてこの隙間に階段があった
右は飲み屋がひしめいた場所

再開発後、飲み屋街は整然としたロータリーに変わり、かつての飲み屋の多くは新しい道路沿いに移転しました。その結果、街の持つ「闇の個性」は失われました。

魔窟のような飲み屋から新しい道路沿いに移った飲み屋のマスターはこう語ります。「たしかに道はまっすぐになりスッキリしたけど、面白みがなくなったね」。

たしかに、いろいろなものが密集した濃密な空間が醸し出すものは、いまのひばりが丘にはなくなりました。

次の話は、その飲み屋で隣に座った人物から聞いた話です。その人物は店の常連で、多少大言壮語というか話を盛る癖があって、周囲からは「ほら吹き××」(××は彼の苗字)と呼ばれていました。今年の1月に話題になったバカリズム脚本のドラマ『ホットスポット』は、主人公・市川実日子の同僚・角田晃広(東京03)がじつは宇宙人だったというものでしたが、それと似ています。ちょっとお付き合いください。

III. 宇宙人運転手

「ほら吹き」氏はひばりヶ丘駅の利用者、酒好きで都心で飲むことも多かったといいます。その日も西武池袋線池袋駅12時17分発の小手指行きの終電車を逃し、ひばりヶ丘駅にはダイレクトに帰れない状態になりました。でも12時35分発の保谷行き、本当の終電車が残っています。それに乗ることにしました。保谷に着きましたが、同じような客が多く、タクシーも長蛇の列でした。やむなく彼は、ちょっとズルをします。白タク(非合法タクシー)を使ったのです。

それが奇譚の始まりでした。

タクシー運転手は、周辺の道の複雑さを語った後、突如、信じがたい告白をしたといいます。

「お客さん、これから話すことは絶対に秘密です。僕は普段は運転手ですが、じつは宇宙人なんです。絶対に言わないでくださいよ。お客さんなら大丈夫と思ったんだから」

「ほら吹き」氏は、運転手が話したという地球に来た理由やその任務やらをしゃべっていましたが、酒席で聞いた話なので詳しいことは忘れました。ただ、以下のような会話があったことを聞き、ちょっと気味が悪くなりました。

ひばりが丘に帰るだけなのに、いつの間にか知らない道を走っていたそうです。「すみません、この道で合ってますか?」と聞くと、 「ええ、問題ありませんよ。少しばかり遠回りになりますが、ご心配なく。私は時間の感覚が、あなた方地球人とは少し違うんです」と彼が言ったところまでは覚えているそうですが、その後寝落ちしていたそうです。

やがて自宅近くに着いてからは、ごく普通の白タクに戻っていました。料金も最初に決めたとおり。ただ、最後の言葉が変わっていました。

「ありがとうございました。おかげでいい調査ができました」 冬の夜、石油ストーブの匂いが漂っていた店内で聞いたトンデモ話です

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By 手塚肇

1958年生まれ。東京出身。東村山市立萩山小学校から東久留米市立第二小学校に転校、同校卒業。10年ほど前まで会社員だったが、脳梗塞を発症後引退。現在無職。趣味乾布摩擦、怪談、映画鑑賞。

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